表具、掛軸、額装、屏風、フスマの谷口萬栄堂
額装の案内お店の案内お問合せ
ホーム     

さざなみノート

 

巌谷小波(いわやさざなみ)

明治時代に初めて子供を読者とした
「お伽噺」と呼ばれる読み物を生み出し
日本の児童文学の扉を開きました。

巌谷家は
近江水口藩(現在の滋賀県甲賀市水口町)の
藩医の家柄で「明治の三筆」の一人に数えられた
父・巌谷一六(いわやいちろく)の三男として生まれ
「小波」というのは、滋賀の琵琶湖にちなんでつけられた
ペンネームです。

「頭を雲の上に出し・・・」で始まる童謡「ふじの山」は、
巌谷小波の作詞です。
地元の甲賀市・水口小学校をはじめとして
小波が作詞した校歌が、
今も全国各地で子供たちによって歌い継がれています。
巌谷小波記念室
水口歴史民俗資料館
甲賀市水口町水口5638

地図
水口歴史民俗資料館には、
巌谷一六やその子小波の記念室があります。



展示室には一六の墨蹟や遺品。
小波の作品やお得意の俳画などを展示するほか、
自動絵本や映像コーナーで、楽しみながら二人の
仕事に触れることができます。

巌谷一六(いちろく)  09・3・3

さざなみの父一六は近江水口(みなくち)藩の藩医から明治政府の書記官僚となり、のち貴族院議員となり、かつ明治時代を代表する書家であった。書は一六の母利子が秀でていて、この血を受け継いだようである。修(しゆう)は7歳のときから書を習い、そのときの先生に、「我、書法以て人に教ふること年久し、然れども未だ此の如き能書を見ず、此の以後書を以て名を天下に成さん」と予言したという

一六さんの名前  09・3・20

滋賀県甲賀市水口出身で明治の代表的な書家の一人である、巌谷一六を、郷土の人たちは親しみを込めて、一六(いちろく)さんと呼んでいます。一六さんの本名については幼名を「辮冶(べんじ)」、成長してからは、「立的(りゆうてき)」後に「迂也(うや)」とします。明治政府に勤めてから「修(しゅう)」と名乗りました。この一六というのは、雅号と呼ばれるもので、「文人・画家などが用いる風流な別名」です。そのほかにもキュウ霞(きゅうか)仙史・古梅(こばい)・金栗(きんぞく)道人・等の号があるが、そのことについて、小波が、「身の上話」に次のように書いています。「明治十八年、例の第二の維新とも云うべき、憲政実施のときに当たって、父は元老院議官から、錦鶏間祗候(きんけいのましこう)という、宮中の閑職に転じてからは、その生活もまったく文人的になって、何位、勲巌谷修の名は、漸く一六、古梅の雅号の陰におおはれつつ行くようになった。また金栗同人と号したのは、その後貴族院議員に勅選されてからの事で、金は錦鶏間の金、栗は貴族院の族を、例の駄洒落に過ぎぬのである。否、駄洒落とい言えば、父の号は大方駄洒落だ。一六居示とは,明治初年の官省の、休暇は皆一、六の日であった故。古梅居士とは,住宅が、駒井小路にあった故。キュウと霞楼は休暇楼のこと。それからまた時としては、呑沢山人とさえ号した事もある。以てその性格の一面をも覗き得るではあるまいか」

09・6・5  さざなみの家系図です。

 
小波の幼年時代-1 10.02.28
小波(季雄)は、明治三年東京で生まれました、幼いころから、骨董品を集める癖があり自分が午(うま)年生まれなので、馬が好きで馬に関するものも多く集めました。後には日本全国の獅子頭を収集したこともあります。小波の俳画には、特に馬の図柄が多くみられます。
小波の幼年時代-2
季雄の幼児からの教育については長兄立太郎が面倒を見ていました。小波10歳のころドイツ留学中の立太郎からオットーの「お伽噺集」」が送られてきたことがあります季雄は家業の医者を継ぐためのドイツ語の勉強よりも、その物語の内容に関心があり後にお伽噺の道に進むようになった芽生えがここにありました。
明治10〜15年(季雄8〜12歳)
明治18年(季雄16歳)
初めてお伽噺「一珍可笑夢」創作(未発表) 二作目「かちかち山後日譚」後にかちかち山狸記念碑戸と改題し発表。)
この頃後の「金色夜叉」のモデルになったといわれる、初恋の人・川田綾子と出会う。
明治
 

谷口萬栄堂
滋賀県甲賀市水口町三大寺287-1
maneido.jp